尾畠春夫さんがカッコよすぎる!世間に恩返しを、の強い気持ちとは

山口県周防大島町で8月12日から行方不明になっていた2歳の男児(藤本理稀ふじもとよしき)ちゃんが15日、無事に保護されました。山中で男児を発見したのは、ボランティアで捜索に加わっていた大分県の尾畠春夫さんです。

ボランティアの尾畠春夫さん

今回はこの尾畠春夫さんが人として凄い、素晴らし過ぎる!と話題になっているので調べてみようと思います。

尾畠春夫さんは現在78歳ということですので昭和15年生まれになります。

15歳で実家(大分県別府市)の鮮魚店を継ぎますが18歳で一度東京に出て建築作業員(とび職)として働きます。3年後に実家に戻り別の鮮魚店で働いていた女性と結婚。その女性は尾畠さんがもともと好意を持っていた女性だったと言います。

とび職として働いてお金を貯めたのでしょうか、新しく鮮魚店をオープンさせ65歳まで働きました。

尾畠さんは40歳で登山に目覚め、当時からボランティアで由布岳に年間50回は登って登山道の整備を始めたそうです。月に7〜8回、30〜40キロの材料を担いで登り、崩れかかった登山道の整備をしたり、案内板を設置したりしたといいます。
その他にも毎日8キロ走る、など健康な体に勝るものはないと、体力維持には人一倍気を付けていると語っていました。

自分が元気でないと人のために動くことなんてできないですものね。それにしても登山はしても、登山道を整備したりなど、自分から進んで積極的に動こうとするボランティア精神には本当に頭が下がります。

そしてなんと66歳の時(2006年)徒歩で日本縦断を成し遂げます。

日出町川崎の尾畠春夫さん(66)が歩いて日本列島縦断を成し遂げ、杵築市の八坂中学校時代の同級生約30人から7月8日、同市内で祝福された。尾畠さんは「目標を持ってやれば、出来るものだ」と笑顔を見せた。

尾畠さんは4月1日、鹿児島県佐多岬を出発。太平洋側を北上し、この7月1日に北海道宗谷岬に着いた。自分の計算によると、歩いた距離は3250・5キロ。夜はテントかバス停、無人駅で眠り、風呂に入ったのは6回。60キロだった体重は53キロになり、5足の靴をはきつぶした。

生まれた日本を歩き通したかったのと、自分の体力を試したかったという。家族や歩いた先々の人たちの励ましがあり、リュックに入れた中学時代の同級生109人の写真にも背中を押されて達成できたと語った。

https://www.asahi.com/articles/ASL8H7WZ5L8HUEHF00L.html

すごいですよね。66歳で3250,5キロを歩き通すなんて!3カ月の間で風呂に入ったのは6回。靴を5足履きつぶす。その強い意志とやり抜く体力には驚かされます。

2年前の2歳女児行方不明事件のときにもボランティア活動

尾畠さんは2年前の大分県佐伯市で起きた同じような事件でもボランティアとして捜索に参加していました。

「暗闇の中に光るホタルのように見えた」。菅地区の林業男性(70)は言う。6日午前0時に警察などが捜索をいったん打ち切った後も捜索を続ける人々が手にするライトだったとみられる。暦ちゃんの両親や親族が続ける捜索に、佐伯市の会社員播磨壯亮さん(40)ら2人も加わった。

播磨さんは両親と知り合いではない。ただ、同じ2歳の娘を持つ親として「いてもたってもいられなくなり」捜索に加わることにした。仕事を終えて現地に着いたのが6日午前1時すぎ。宇目出身の高校の先輩と共に警察や消防の捜索が再開される早朝まで現地にとどまり、暦ちゃんの無事を願った。ボランティアは他にもいた。日出町の尾畠春夫さん(77)もその1人。各地で行方不明者の捜索に加わったことがあるという。

出典:https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/310087/

その時の経験で、小さい子は道を上に上がるのが好きで、まず下に降りていくことはない、ということを確信していたといいます。

今回もその時の経験を活かし理稀ちゃんが最後に目撃された場所から上へ上へと探していきました。数時間探すつもりだったといいますが山に入ってわずか20分で、沢の途中で発見したのです。

発見時、警察に理稀ちゃんを渡すように言われた尾畠さんですが、「自分の手で両親に届けたい」と渡さなかったといいます。

2011年東日本大震災でもボランティア活動

尾畠さんは2011年の東日本大震災では、3月から宮城県南三陸町でボランティアとして活動していました。町から依頼され、被災地で、人々が大切にしていた物を拾い集める「思い出探し隊」の隊長を務めました。

軽自動車で大分と宮城を3日かけて往復しつつ活動を続け約500日被災地で支援に当たったそうです。2006年の日本列島縦断の旅のときにテントを干していた南三陸町で、炊き込みご飯を差し入れしてくれた当時60代の女性とその後も文通を続けていたことがきっかけとなったといいます。

携帯電話を持たない尾畠さんは文通で連絡を取り合っていたんですね。その女性と震災で連絡不能になってしまい、いてもたってもいられなくなったそうです。本当に情に厚い人柄がうかがえますよね。

さかのぼって2004年の新潟県中越地震の被災地でもボランティア活動に参加していた尾畠さんですが、若いボランティアからは「師匠」と呼ばれていたといいます。

尾畠さんのボランティア精神、この強い気持ちの源泉は?

「学歴も何もない自分がここまでやって来れた、これからは社会に恩返しがしたい」

上は尾畠さんが鮮魚店を引退した時の言葉です。

学歴がないことをコンプレックスに感じて社会に対して投げやりになったり、反対に学歴を振りかざして大きい顔をしたり、学歴によって得た立場を利用してずるいことをしたりという、いま社会で問題になっている数々の事件が、尾畠さんの前では何かどうでもいいことのように思えてしまいます。

尾畠さんがすごいのは、感謝する心を持っていることなのではないでしょうか。

尾畠さんのような人がいてくれたことが心底嬉しいし、ありがたいことだと思います。心から感動を覚えます。なんだ日本はまだまだ大丈夫じゃないかと思えました。

尾畠さん本当にありがとうございましたと直接会って言いたい気持ちです。

健康に気を付けている尾畠さん、怪我だけは気をつけてください!と思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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