【冨永愛の生い立ちから現在】宇宙人と呼ばれ三姉妹父が違う。母を恨んだ壮絶半生

人物

冨永愛さんといえば世界的モデルとしてパリコレでも活躍後、現在は東京に生活の拠点を移して活動されています。

目次

冨永愛・プロフィール

氏名   冨永愛(とみなが あい)
生年月日 1982年8月1日
出身地  神奈川県相模原市
身長   179㎝
血液型  B型

きっかけは姉の勧めで15歳からティーン誌の読者モデルになった冨永愛さん。けれどその長すぎる手足ゆえに既製服が合わず、やがて呼ばれなくなったといいます。

自分でこれしかない、と思ってモデルになってもまた「違う」と言われる。さらにコンプレックスを深めました。

「若いころの私は、いつも何かに怒っていた。怒りが『燃料』でした」

朝日新聞デジタルより

と語っているように、いつも怒りを抱えて生きていた若い頃の富永さん。

母親が結婚離婚を繰り返したため、3人姉妹の父親は3人とも違う人。母親はいつも家にいない。たまに帰ってきたと思ったら酔っ払っている。

学校でのいじめのことを話しても取り合ってくれない。

”土壁にトタンを貼り合わせた、まるでバラック小屋”に住み、ほぼネグレクト状態だった母親はいつもいないという状態で、一体家を開ける時は食事はどうしていたのでしょう?

どのくらい子供達にお金を置いて家を空けていたのでしょう。きっといつもひもじい思いをしていたことでしょう。

中学生ですでに175cm

中学時代にはすでに175cmあったという冨永愛は、学校でも壮絶ないじめを受けていました。

「うすらデカい女も生理あるべ?(笑) 一発やらせろや! この巨人女!」

「あそこもでけえべ! なら二、三本ぶちこんでやるべぇ(笑)」

「モデルよりプロレスの方が売れるんじゃないか、ジャイアン女!」

同性からも許せない言葉を浴びせられていました。

「モデル事務所の社長とかに、やっぱやられちゃったりすんでしょ(笑)。キャーッハハハ」

他にも

  • 「死ね」と書かれた紙が机の中にはいっていた
  • イスに敷いてある防災頭巾の中に画びょうが刺さっていた
  • 上履きの中に画びょうが入っていた

というひどすぎるいじめを受けていた冨永愛。

ある日自宅の風呂場で自殺を試み、手首を切ろうと寸前までいったけれど、死への恐怖から最終的にはできなくてわんわん泣いたといいます。

「ぶっ殺してやる、みんなぶっ殺してやる、許さない」

これが中学生の時だと思えば、冨永愛がこの後どんな怒りを抱えて生きていったかがうかがい知れると思います。

けれど普通とはかけ離れた長い手足という容姿は、モデルとしては最高に恵まれたものだったのです。

姉の勧めで読者モデルに応募、最初に世に出た写真がこちらです。

これが高校1年の時の時ですよ。

大人びた微笑み、達観したような眼差し、の上のこの9頭身です。そりゃあ写真家レイモンドも目を輝かせたことと思います。

そして17歳(高校2年)で単身ニューヨークへ。

そして初めてのニューヨークコレクションで、見事出演を勝ち取ったRalph Laurenのコレクション。

初めてのニューヨークでのランウェイで冨永愛はモデルの中でただ一人薄汚れたスニーカーを履いていました。

当時は東洋人のモデルもまだまだ珍しく、翌日には冨永愛がでかでかと各社の新聞に載って世間に露出できたことを思えば、今となっては「おいしかった」と思っているとのことですが、当時は「もしかして、バカにされてる?」

と思ってしまい、悔しい思いを必死に隠していたそうです。

けれどもこの時の苦い思いこそが、私の燃えるような闘争心、世間の慣習に抗う反骨心を助長し、それが、これから先の苦難を乗り越える糧となったことは明らかな事実である。

VOGUEより

と彼女は言っています。

その後はDiorやSaint Laurentなど名だたるブランドのショーに呼ばれ、瞬く間に世界に通じるスーパーモデルになった冨永愛。

当時の彼女のある1日を追った映像です。

まだ10代なのに!迫力あるし、何と言ってもかっこいいです!

ずっと反骨精神と怒りで生きてきた。海外のショーに出たから何?

子供の頃の苦い思い出を胸に抱え、ずっと「いじめた奴らを見返してやる」「絶対認めさせてやる」という反骨精神と怒りを胸にそれまで生きてきた冨永愛は、上の映像でもわかるように「いつも笑顔でいること」を自分の中で心がけていたそうで、それもすごいなーと思うんです。

もし私だったらその悔しい思いや辛い思いが何かの時に、か普段から(!)顔に出てしまうと思うんですよ。

そんな冨永愛さんです。

海外のショーに出たからといって、世間に認めさせることがそれまで頑張ってきた目的のひとつとはいえ急に手のひらを返したようにちやほやされても逆に理不尽に思えたのかもしれません。

でもここからはもう、「冨永愛」はどんどんその名前・存在を知らない人はいないところまであっという間で、その大きな怒りは、少しづつ収まっていったのではないでしょうか。

「愛には黒が似合う」と言われるのが悔しくてオーディションにはわざと明るい色味のものを着ていったことも、実は本当に認めて言ってくれていたのかもと今では思える、と語っています。

22歳で結婚、男の子を授かった冨永愛

その後いくつかの恋を経験し、22歳で結婚と妊娠のニュースが世間をにぎわせました。

お相手は当時パリ在住の日本人パティシエということでしたが、2005年3月に出産後、2009年に離婚しています。

離婚理由は「夫の嫉妬や束縛だった」と本人の口から漏らしていました。

何かのことで夫が腹を立て、彼女に「土下座して謝れ」と言ったというのが当時大きく報道もされていましたよね。

3年でモデルをやめるつもりが・・・

子供を産んだら体型も変わるかもしれない。

その時のことはその時考えればいいと思っていたそうです。

けれどもオファーがかかり、結局赤ちゃんを産んで半年でケンゾーのショーで赤ちゃんを抱っこして復帰しました。

その後はまた世界中を飛び回る生活に戻り、やっぱ露自分はモデルの仕事が好きなんだと実感したそうです。

気がついたら10年そんな生活が続いていて、ある日高熱にうなされ体を壊し、それを機に3年間という休業生活に入りました。

その期間はずっと息子さんと向き合い、PTAの活動にも参加したそうです。

息子さんと小学校4、5、6年という成長著しい大事な時期に一緒に過ごせてほんとによかったですよね。

モデルとしてこれからも生きる

今仕事に復帰した冨永愛はテレビにも出たり、海外でのスーパーモデルの経験を生かしながら、やっぱり「カメラの前が私の還る場所」という思いでいろんな活躍を見せてくれていますね。

「林先生の初耳学」の中の「アンミカ先生のパリコレ学」、大人気企画ですよね。

おわりに

今は怒りはもうないけど、負けず嫌いは私の性。前に進むために何くそっ!という気持ちは持ち続けていたいと語った冨永愛。

性格も、生き方も、大好きです!

お母さんを恨んで、憎んで、壮絶な幼少期〜10代を過ごした愛さん。でも、たくさんの人に応援されて、認められて、自分が知らないうちにどこかの誰かを励ましている存在なのだと知った時、きっとそのドロドロしたどす黒い気持ちは少しづつ浄化されていたのかなって思います。

これからも愛さんを応援したいですね。

今後の活躍を楽しみにしていたいと思います。

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